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改めて自己紹介
柴田をよく知る顧客様は改めまして、初めてこのブログを見る方は初めまして
この度は柴田恒志の自己紹介ページを開いて下さりありがとうございます
できる限りの記憶を辿り自分の体験して来たことを振り返る事で自己紹介させていただければと思います
1967年(昭和42年)7月27日
東京都立川市の柴田家に生まれました
父はサラリーマン 母は専業主婦
2歳ずつ離れた姉が2人の
3人姉弟の末っ子長男として育つ
幼少期編
小さい頃は病気がちだったらしくそのお陰かわかりませんが色んな免疫がついたみたいで今ではめったに風邪もひかない健康体です
仮面ライダーが大好きで父に変身ベルトを買ってもらいましたが
光ってグルグル回る中身がどうなっているのか知りたくて翌日に分解しようとして壊してしまう
また、お祭りで自分の体よりデカいボンボンバルーンを買ってもらったこれまた翌日に針でつついたらどうなるか知りたくて割ってしまうとか他にも色々やらかしましたが、そんな好奇心旺盛な幼少期でした、
勿論その度に両親にはこっぴどく叱られましたが…
小学生編
小学2年生から少年野球チームに入り最終学年では立川市内の大会で3位の結果とチーム内では打点王の表彰を貰うことができました
ちなみにキャッチーをやってました
お受験をして杉並区の中高一貫校に進学することになります
中学生編
中学に上がりまた野球部に入りましたがキャッチー志望の同級生2人が体がデカかったので早々に諦めセカンドにポジション変更
入部者が30人近い学年だったため
レギュラー争いは熾烈を極め残念ながらレギュラーの座は勝ち取れませんでした
しかしこの野球部での経験が今の自分の人間形成の大部分になっているんではないだろうかと思えるくらい充実した2年半でした
上下関係がとても厳しく敬語の使い方と挨拶を学びました
監督ももの凄く恐くて鉄拳制裁あたりまえ、陰で鬼軍曹と呼ばれている人でしたが今では先輩達や監督には感謝しています
ちなみに最終学年の東京都大会では都内3位の結果でなかなかの強豪チームでした
なぜか3位ばかりですね笑
高校生編
高校に上がり甲子園出場実績もある野球部に入部するつもりでしたが、腕や太ももが丸太棒みたいな顔も老けてる外部入学生達を目の当たりにして弱気になり気持ちも萎え逃げの道を選んでしまいハンドボール部に進路変更です
ここから後にも先にも人生で最もおちゃらけた3年間の始まり始まりです。
無責任とお気楽さで背中に羽が生えたかと思うくらい勉強そっちのけで遊びまくります、
野球部の同級生が頑張っている姿が目の端に入っていましたが、その気持ちを誤魔化すかのように
毎週土曜日の夜は新宿のディスコ
日曜日は早朝からサーフィン、
彼女もつくり、お酒やタバコにも手を出したりしてました
ヤンキーとかグレてた訳ではないです
ただ単にアホな高校生だっただけです
朝通学の時に駅のホームで他校の生徒とくだらない理由で喧嘩になって鉄道警察に捕まり、迎えに来てもらう保護者を親か担任を選べと聞かれたからすかさず親と答えたのに(両親は喧嘩に関してだけはなぜか叱らなかったので)担任を呼ばれてしまい、
この担任がまた熊五郎みたいなゴツくて恐ろしくて、過去にも往復ビンタ8発くらってた事もあり
終わった………と思っていたら
学校に向かう途中、「朝から運動したから腹減っただろ?」と
妙に優しくて喫茶店に入りモーニングをご馳走になりながらも
[なんの作戦だよ?]と、まだビクビクしてましたが、「もうやるなよ」の一言で終わりました
後に人伝に聞いた話しによると
担任の先生も同校OBで高校時代しょっちゅう他校の生徒と喧嘩してその度に恐い担任が迎えに来てくれてたそうです笑
ちなみにハンドボール部は弱小でした
また、アルバイトも色々やりましたが、まだ高校生で世の中にはどんな仕事があるのか解ってもないくせに、漠然と将来はネクタイを締めて毎朝満員電車に乗って通勤するような仕事は嫌だなと、
薄っぺらい頭で考えていました
後に自分が社会人になって、父の偉大さとそれを支えた母を尊敬する事になるのですが、、、
そんな時いつも連んでいた友人が美容室でアルバイトをし始めて
楽しいからお前も来いよと誘われて始めたのが結果美容師になろうと思うきっかけになりました
進路希望提出の時期になり進学校だったのでほぼ皆んな大学進学の中、私だけ美容専門学校と書いて提出しました、
その時はもう熊五郎先生は担任ではなかったけれど相談して欲しかったと心配されました
勝手に入学願書を取り寄せ両親に話したところ、父は好きな事をやれという考えの人でしたが
母は怒りまくっていました
終いには「お前のせいで額が薄くなった」とおでこを見せられ
それは俺のせいでは無く加齢によるものでは?と思いましたが言うと火に油を注ぐ事になるので黙っていました
私も意志を曲げなかったのて最後は諦めて折れてくれましたが
やはり父のように会社勤めをして安定した生活を選んで欲しかったんだと思います
なのでこの時点でおちゃらけた高校生は卒業して、真面目に将来の事を考えるようになりました
美容学校編
そんな事もあって美容学校在学中は先生に褒められるくらい真剣に授業に取り組みました
就職活動時期になり、母と熊五郎先生に認めて欲しい為もありましたが、何よりも自分の為に
以前から憧れていた美容師なら誰もが知っているカット技術が高いと有名なPEEK-A-BOOという会社に挑戦し、運良く内定を貰うことができました
美容師編
ここから苦難のアシスタント時代の始まり始まりです
今思い出しても楽しかった事も沢山あるはずなのに、辛かった事しか思い出せません
それくらい必死で毎晩練習して
週に一度の休みの日は一日中寝ている日々でテレビを観る余裕もありません
だから当時流行っていた音楽がその期間はすっぽり抜け落ちていて
今懐かしのヒット曲とか聴いてもその当時の曲はわかりません
美容師は音楽やファッションに敏感でなければいけないのですが
その時はその余裕が本当にありませんでした
見た目華やか世界とは裏腹に会社の風土も超体育会系で上下関係も厳しく2年目の時は本当に辞めてやろうかと考えた時もありましたが
中学の野球部で培った経験があって乗り越える事ができました
3年目になり店舗の移動があって
その時の店長の技術に憧れて
シャンプーしながら、床を掃きながら、先輩のワインディングのヘルプをしながら、そして店長の専属アシスタントになってからは尚更カットを間近で食い入るようにフォーカスしていました
店長の創り上げるスタイルの世界観が大好きで何度も練習してみるのですが全然再現出来るわけもなく、だったら店長の吸ってるタバコの銘柄、好みの食べ物、好きなブランドの洋服や歩き方など、色々真似たりして、そしたら何か見えてくかな?とかやってました
[なぜ?]が知りたかったんだと思います
でも当然店長と私は違うわけで
スタイリストになって暫く経った時に自分は自分のままでいいんだと気づいた時に敢えて店長の仕事を見るのを止めて自分なりの世界観を構築していきました
私が退社する送別会の時、その想いを店長に伝えたら
「うん、柴田わかってたよ」と
一言言った後のニコッとした笑顔にやられて号泣したのを覚えています
私を育ててくれて本当に感謝していますし今でも尊敬していますが
自分は自分色でいいんだと気づいた原点でした
マーズ編
そして独立、1998年(平成10年)
3月30日にマーズをOpenしました
いつか独立する事はこの職業を選んだ時から決めていました
就職先のお店へ初出勤の朝、両親に「10年後独立する為に今日から頑張る、行ってくる!」と宣言して家を出たのを覚えています
先に決めて宣言すればそれは必ず叶うんだと体感しました
思考は現実になるんだと
そして有り難い事に直ぐにお店は繁盛しました
が、
子供達の運動会や野球の試合の応援にも行けないような日々が過ぎていきます
この仕事を選んだ時、そして自分のお店を持った時、そんな事はわかっているはずなのにやはり複雑な気持ちになる時がありました
そんな中50歳過ぎたらマンツーマンサロンにしてマイペースでやろうと決めたらまた本当にそうなりました
決めて思考すれば叶うをまた実感しました
1人ですから当然シャンプーから
カット、パーマ、カラー、仕上げと全部するわけですが、自分は本当にこの仕事が好きなんだなと思います
以前スタッフがいた時に経営セミナーなどを何度か受講した事もありましたが全然楽しく無くて
やはり現場に立つ事が楽しいんだなとつくづく感じます
体が動く限りサロンワーカーとして立ち続けて行きますのでこれからもどうぞよろしくお願い致します
最後までお読みいただきありがとうございました
17/02/20
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柴田をよく知る顧客様は改めまして、初めてこのブログを見る方は初めまして
この度は柴田恒志の自己紹介ページを開いて下さりありがとうございます
できる限りの記憶を辿り自分の体験して来たことを振り返る事で自己紹介させていただければと思います
1967年(昭和42年)7月27日
東京都立川市の柴田家に生まれました
父はサラリーマン 母は専業主婦
2歳ずつ離れた姉が2人の
3人姉弟の末っ子長男として育つ
幼少期編
小さい頃は病気がちだったらしくそのお陰かわかりませんが色んな免疫がついたみたいで今ではめったに風邪もひかない健康体です
仮面ライダーが大好きで父に変身ベルトを買ってもらいましたが
光ってグルグル回る中身がどうなっているのか知りたくて翌日に分解しようとして壊してしまう
また、お祭りで自分の体よりデカいボンボンバルーンを買ってもらったこれまた翌日に針でつついたらどうなるか知りたくて割ってしまうとか他にも色々やらかしましたが、そんな好奇心旺盛な幼少期でした、
勿論その度に両親にはこっぴどく叱られましたが…
小学生編
小学2年生から少年野球チームに入り最終学年では立川市内の大会で3位の結果とチーム内では打点王の表彰を貰うことができました
ちなみにキャッチーをやってました
お受験をして杉並区の中高一貫校に進学することになります
中学生編
中学に上がりまた野球部に入りましたがキャッチー志望の同級生2人が体がデカかったので早々に諦めセカンドにポジション変更
入部者が30人近い学年だったため
レギュラー争いは熾烈を極め残念ながらレギュラーの座は勝ち取れませんでした
しかしこの野球部での経験が今の自分の人間形成の大部分になっているんではないだろうかと思えるくらい充実した2年半でした
上下関係がとても厳しく敬語の使い方と挨拶を学びました
監督ももの凄く恐くて鉄拳制裁あたりまえ、陰で鬼軍曹と呼ばれている人でしたが今では先輩達や監督には感謝しています
ちなみに最終学年の東京都大会では都内3位の結果でなかなかの強豪チームでした
なぜか3位ばかりですね笑
高校生編
高校に上がり甲子園出場実績もある野球部に入部するつもりでしたが、腕や太ももが丸太棒みたいな顔も老けてる外部入学生達を目の当たりにして弱気になり気持ちも萎え逃げの道を選んでしまいハンドボール部に進路変更です
ここから後にも先にも人生で最もおちゃらけた3年間の始まり始まりです。
無責任とお気楽さで背中に羽が生えたかと思うくらい勉強そっちのけで遊びまくります、
野球部の同級生が頑張っている姿が目の端に入っていましたが、その気持ちを誤魔化すかのように
毎週土曜日の夜は新宿のディスコ
日曜日は早朝からサーフィン、
彼女もつくり、お酒やタバコにも手を出したりしてました
ヤンキーとかグレてた訳ではないです
ただ単にアホな高校生だっただけです
朝通学の時に駅のホームで他校の生徒とくだらない理由で喧嘩になって鉄道警察に捕まり、迎えに来てもらう保護者を親か担任を選べと聞かれたからすかさず親と答えたのに(両親は喧嘩に関してだけはなぜか叱らなかったので)担任を呼ばれてしまい、
この担任がまた熊五郎みたいなゴツくて恐ろしくて、過去にも往復ビンタ8発くらってた事もあり
終わった………と思っていたら
学校に向かう途中、「朝から運動したから腹減っただろ?」と
妙に優しくて喫茶店に入りモーニングをご馳走になりながらも
[なんの作戦だよ?]と、まだビクビクしてましたが、「もうやるなよ」の一言で終わりました
後に人伝に聞いた話しによると
担任の先生も同校OBで高校時代しょっちゅう他校の生徒と喧嘩してその度に恐い担任が迎えに来てくれてたそうです笑
ちなみにハンドボール部は弱小でした
また、アルバイトも色々やりましたが、まだ高校生で世の中にはどんな仕事があるのか解ってもないくせに、漠然と将来はネクタイを締めて毎朝満員電車に乗って通勤するような仕事は嫌だなと、
薄っぺらい頭で考えていました
後に自分が社会人になって、父の偉大さとそれを支えた母を尊敬する事になるのですが、、、
そんな時いつも連んでいた友人が美容室でアルバイトをし始めて
楽しいからお前も来いよと誘われて始めたのが結果美容師になろうと思うきっかけになりました
進路希望提出の時期になり進学校だったのでほぼ皆んな大学進学の中、私だけ美容専門学校と書いて提出しました、
その時はもう熊五郎先生は担任ではなかったけれど相談して欲しかったと心配されました
勝手に入学願書を取り寄せ両親に話したところ、父は好きな事をやれという考えの人でしたが
母は怒りまくっていました
終いには「お前のせいで額が薄くなった」とおでこを見せられ
それは俺のせいでは無く加齢によるものでは?と思いましたが言うと火に油を注ぐ事になるので黙っていました
私も意志を曲げなかったのて最後は諦めて折れてくれましたが
やはり父のように会社勤めをして安定した生活を選んで欲しかったんだと思います
なのでこの時点でおちゃらけた高校生は卒業して、真面目に将来の事を考えるようになりました
美容学校編
そんな事もあって美容学校在学中は先生に褒められるくらい真剣に授業に取り組みました
就職活動時期になり、母と熊五郎先生に認めて欲しい為もありましたが、何よりも自分の為に
以前から憧れていた美容師なら誰もが知っているカット技術が高いと有名なPEEK-A-BOOという会社に挑戦し、運良く内定を貰うことができました
美容師編
ここから苦難のアシスタント時代の始まり始まりです
今思い出しても楽しかった事も沢山あるはずなのに、辛かった事しか思い出せません
それくらい必死で毎晩練習して
週に一度の休みの日は一日中寝ている日々でテレビを観る余裕もありません
だから当時流行っていた音楽がその期間はすっぽり抜け落ちていて
今懐かしのヒット曲とか聴いてもその当時の曲はわかりません
美容師は音楽やファッションに敏感でなければいけないのですが
その時はその余裕が本当にありませんでした
見た目華やか世界とは裏腹に会社の風土も超体育会系で上下関係も厳しく2年目の時は本当に辞めてやろうかと考えた時もありましたが
中学の野球部で培った経験があって乗り越える事ができました
3年目になり店舗の移動があって
その時の店長の技術に憧れて
シャンプーしながら、床を掃きながら、先輩のワインディングのヘルプをしながら、そして店長の専属アシスタントになってからは尚更カットを間近で食い入るようにフォーカスしていました
店長の創り上げるスタイルの世界観が大好きで何度も練習してみるのですが全然再現出来るわけもなく、だったら店長の吸ってるタバコの銘柄、好みの食べ物、好きなブランドの洋服や歩き方など、色々真似たりして、そしたら何か見えてくかな?とかやってました
[なぜ?]が知りたかったんだと思います
でも当然店長と私は違うわけで
スタイリストになって暫く経った時に自分は自分のままでいいんだと気づいた時に敢えて店長の仕事を見るのを止めて自分なりの世界観を構築していきました
私が退社する送別会の時、その想いを店長に伝えたら
「うん、柴田わかってたよ」と
一言言った後のニコッとした笑顔にやられて号泣したのを覚えています
私を育ててくれて本当に感謝していますし今でも尊敬していますが
自分は自分色でいいんだと気づいた原点でした
マーズ編
そして独立、1998年(平成10年)
3月30日にマーズをOpenしました
いつか独立する事はこの職業を選んだ時から決めていました
就職先のお店へ初出勤の朝、両親に「10年後独立する為に今日から頑張る、行ってくる!」と宣言して家を出たのを覚えています
先に決めて宣言すればそれは必ず叶うんだと体感しました
思考は現実になるんだと
そして有り難い事に直ぐにお店は繁盛しました
が、
子供達の運動会や野球の試合の応援にも行けないような日々が過ぎていきます
この仕事を選んだ時、そして自分のお店を持った時、そんな事はわかっているはずなのにやはり複雑な気持ちになる時がありました
そんな中50歳過ぎたらマンツーマンサロンにしてマイペースでやろうと決めたらまた本当にそうなりました
決めて思考すれば叶うをまた実感しました
1人ですから当然シャンプーから
カット、パーマ、カラー、仕上げと全部するわけですが、自分は本当にこの仕事が好きなんだなと思います
以前スタッフがいた時に経営セミナーなどを何度か受講した事もありましたが全然楽しく無くて
やはり現場に立つ事が楽しいんだなとつくづく感じます
体が動く限りサロンワーカーとして立ち続けて行きますのでこれからもどうぞよろしくお願い致します
最後までお読みいただきありがとうございました